寒かったので1日中、薪小屋に籠っていた。

KIMG3625-1024x768 寒かったので1日中、薪小屋に籠っていた。
薪小屋で昼食:薪小屋では餅焼きを電気コンロで。煮炊きはガスコンロ。
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先日、仕込んだ米糠ぼかし肥料は別の容器に移し、太陽熱で発酵を促進:蓋を開けると酒の香りがする。
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空になった75ℓポリ容器には、新に米糠15㌔を投入し、アミノ酸酵素液を加えてかき混ぜてぼかし肥料を仕込んだ。
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夕方から薪作り:カレンダーを移動しなくちゃ
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これは明日、割ることにする。
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夕食は昨夕の残りの肉等で、すき焼き:肉は淡路牛

本日の面白ネタ

空と縁起の一考察

このありがたい話を下記の通り文字化した。

縁起と空

僧堂では、一年を二期に分けて修行しています。

雨安居と雪安居と申します。

雨安居は、円覚寺では四月二十日から七月末まで、雪安居では十月二十日から一月三十一日までとなっています。

もともとは、お釈迦様の時代に、雨期には外に出掛けると、虫などを踏んで殺してしまうかもしれないので、一カ所に集まって修行していたというのが起こりです。
ですから、元来は年に一度三ヶ月を一カ所で修行するというものだったのです。

それがいつから、雪安居という二期制になったのかは、私も存じ上げません。

そんなに古くはないことではないかと思います。

ともあれ、今の僧堂では、二期制なのです。

その雨安居と雪安居のあいだ、或いは、雪安居と雨安居のあいだを、制間と言っています。

制間といいますが、円覚寺では基本的に毎日の修行に変わりはないのですが、ご自身のお寺に帰ったりすることが許されます。

これをしばらくお暇をもらうという意味で、暫暇(ざんか)と言います。

昨年以来、円覚寺の修行道場では、ほとんど全く外に出ずに道場にこもって修行していましたので、今回の制間では、少しゆっくり暫暇をとってもいいことにしました。

例年ですと、二月一日に出てもいいことになっているのですが、今回は二月七日まで緊急事態宣言となりましたので、緊急事態宣言が開けてから、帰ってもらうことにしていました。

ところが、ご承知の通り、緊急事態宣言が延長されてしまいましたので、さてどうしたものかと考えました。

いろんな方のご意見もうかがってみました。

地方から修行に来ている者もいますので、緊急事態宣言の間に、神奈川から地方に帰ると、嫌われることもあるでしょう。

そこで、全員PCR検査を受けさせて、陰性を確認して帰ることにしました。

ようやく全員の陰性を確認できましたので、九日に帰ることとなりました。

その前日の二月八日に、円覚寺ホームページ管長侍者日記と、その日に公開したYouTubeラジオで、「お弁当の話」をしました。

僧堂の修行僧も、私の毎日書いている侍者日記を読めるようにしていますので、ある修行僧が、その「お弁当の話」を読んでよかったと言ってくれました。

その修行僧は地方から修行に来てくれているのですが、ずっと毎日母親の作ったお弁当をいただいていたそうです。

いただいている頃は当たり前のように思っていたらしいのですが、この「お弁当の話」を読んで、これは有り難いことであって、今の自分が健康でいられるのは、母親のお弁当をいただいたおかげだと思いましたと言ってくれました。

そこで次の日の九日に、ご自身のお寺に帰ることになっていましたので、寺に帰ったら母に、「お母さん、有り難う」と感謝の気持ちを伝えたいと思いますと語ってくれました。

有り難い話であります。

この「私」というものは、母のお弁当をはじめいろんなもので成り立っているのです。

孤立したものではありません。

常にまわりとの関わり合いの中で成り立っています。

これが「縁起」ということです。

そして、「空」「空性」とは、まさにこの縁起のあり方を表してます。

独立して成り立つものはないという意味であります。

井上洋治神父の『余白の旅』には、山口益先生の『空の世界』からの引用がありました。

山口益先生の『空の世界』は、仏教学では大事にされている本であります。

私も学生の頃に読んだものです。

引用されている箇所を記します。

「仏教においてわれわれの悩・煩悩ということの根源的な意味は、いまいう我執我所執にわれわれが捉えられて、われわれが「我れあり、我が物あり」としていることであるが、われわれの限りない我執我所執が、縁起の光によって批判せられて、われわれの我執我所執が破られてわれわれが般若波羅蜜化……するということである。

……そういうことは、しかしながら、いまいう如く縁起の光が限りなくわれわれの能所〔主体と客体のこと]の存在を照らすときに能所が空ぜられ、我執我所執が打ち破られ、すなわち般若波羅蜜化が限りなく行なわれることにおいてあるのである。

………縁起の光の前に、われわれの我執我所執が限りなく空ぜられ、すなわちまた一切有情の我執我所執が限りなく空ぜられねばならないということが、仏の本願であり、限りなき誓願である」

というのです。

なかなか文章は難しいのですが、この文を受けて井上神父は、

「山口氏のこの「縁起の光→主客の空化→我執の破れ(清浄)→般若波羅蜜→大悲」という構造から何等かの示唆をうけていることは否定できない。

またイエスの生涯を貫いているアガペー(悲愛)を、善をなさんとする意志によるものではなくて、我執の破れた無心に湧きでるものとしてとらえるに至ったのも、聖霊の光というものの重大さを聖書の中に読みとるに至ったのも、あるいはこの著書に接した下地があったからかもしれないとも思う」

と書かれています。

縁起という真理、独立して存在するものはないという真理に目覚めて、そうすると自我意識が成り立たなくなり、我への執着が消えると、正しい智慧が生まれ、その智慧慈悲としてはたらくということです。

「空」の思想や哲学ということになると、難しくなりますが、自分の体は自分自身で作ったものではないと気がついて、お母さんのお弁当のおかげであると目覚めて、お母さんに有り難うという感謝を伝える、これも慈悲の現れです。

こんな素朴な思いもまた、空性を表しています。

縁起も空も、身近なところにあるものです。